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私たちは「してあげたこと」は覚えているのに、「してもらったこと」は忘れてしまう

2014年4月13日

「私はあなたに、こんなにもしてあげたのに!」
そう彼女は彼に憤慨します。過去に遡って、これだけのことを私は相手にしてあげたと事細かに覚えているのです。
帰宅してから今まで部屋を整理整頓してあげたこと、
自分の時間を削ってまで栄養バランスのよい食事を用意してあげたこと、
仕事関係で悩んでいたときは全力で相談に応じてあげたこと、
転職では良いエージェントを彼に紹介し転職を成功に導いたこと、
…。
しかし彼女は「彼にしてもらった」ことはいとも簡単に忘れておりました。ーーー
これは、実話です。彼女の憤慨は収まらずこのカップルの未来は幕を閉じました。
細かい状況は知りませんが。
こういうものは、想い出せばよく見かける光景かもしれません。男女間はもとより、職場の人間関係、プライベートの対人関係など、数え出したらきりがない。
「してあげたこと」に対して、人は執着するほど覚えているケースは多いです。
これだけ時間を費やした、これだけ尽くした、これだけおごってあげた・・・
しかし、どれだけの人が同時に、
「相手からこれだけのことを与えてもらった、これだけの時間を割いていただいた、これだけの金額や回数をおごってもらった」と累計計算して記憶しているでしょうか?
ほとんどいないのが現状だと思います。
私たちは、「してあげた」ことは驚くほど覚えているのに、
「してもらった」ことはいとも簡単に忘れてしまう。
冒頭のカップルの話は、どちらが悪いかということを論じたいのではなく、
幸せか不幸せかと説いてみたら、少なくとも彼女は不幸せなままで別れたのではと想像します。
最近読書してたらこんな仏教法話がありました。
極楽でも地獄でも、そこにいる人たちは食事をするのですが、地獄では争いながら食事するのに対して、極楽では歓びに満ちて食事をしている。
その違いは、「箸」の使い方にあるというのです。
極楽でも地獄でも、食事をするとき箸を使うよう命じられるそうです。しかしその箸は、1mも長くて重い。地獄の人たちは我は我はと箸を握って自分の口に食べ物を入れようとするのですが、
箸は当然長いので使いづらく、上手に食べ物をつかめず結局食べることができない。
一方で極楽では、箸の長さを利用して、箸でつかんだ食べ物を自分の口ではなく、他の人の口へと運ぶのです。
食べ物を口に入れてもらった人は当然嬉しく、自分も箸をつかんで相手の口へ食べ物を運ぶ。
相手を想うことが結局自分に帰ってきて、助け合うことが笑いと幸せをもたらしているのです。
「してあげる」という考えは上下関係を創り、「見返り」を不自然にも期待している構図を創り出します。
「これだけ私がやってあげてんだから、あなたもこうしてよ!」
しかし、「してあげた」ことに執着しているよりも、
「相手の役に立つ」ことそのものにも歓びを感じて、
さらに「してもらった」ことを数えて感謝で心を満たすほうが
百倍幸せなのではないか。
私は本来、人の心には誰かの役に立ち、人に喜ばれることを最高の幸せと感じるものだと信じています。人間の遺伝子の90数%はいまだ使われない領域と言われているそうですが、自分の潜在力の1%でも誰かのため、社会のために注ぐことができれば、こんなに嬉しいことはありませんよね。
『他人のために尽くす人生こそ、
価値ある人生だ』
アルバート・アインシュタイン
そんな自分はどうなのかと自省したら、まだまだ他人のために尽くし切れていない自分がいます。
私も未熟で不完全な人間です。
一歩一歩、ここにいる自分の存在はすべての皆さまの賜物だと感謝をすることで
自分自身を鼓舞し、人間的成長を模索していきたいです。
おまけ:
さて、今週もたくさんの出逢いがあり、かけがえのない機会をいただきました!大きなことに挑むには勇気もリスクも覚悟ですが、そんな時支えてくれるのは昔先輩に教えてもらった「厳しいことに挑戦していかぬ者は衰退する」。あえて厳しい世界へ飛び込むことで新しい視点を養いたいです。

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