「諦める」ということは、前向きに生きていくということ
2013年10月20日
お慕い申し上げる周囲の大先輩より、生き方働き方を有り難くもご指導いただく機会が多い1週間でした。その中でもひとつ、話題に挙がったテーマについて綴ろうと思います。
「諦める」(あきらめる)。
この言葉を聞いて、皆さんならどのようなイメージを想像することでしょうか?
「私は夢を諦めた」であれば、思い描いていた夢をとん挫して『人生の負け犬』のような敗者という人物像を抱くかもしれません。
あるいは「片思いしていた人への想いはもう諦めた」ということであれば、その人への恋慕を断ち切った、という諦念の世界が目の前に広がるのかもしれません。
いずれにせよ、「諦める」という言葉はどこか消極的で、ネガティブで、できれば自分は避けたいという感情を禁じ得ないことでしょう。
しかし実は、この「諦め」という意味は仏教用語で「明らかに、見極める」という意味を包有しており、とてもポジティブで人生に至極大切なことなのです。
良い果物を栽培し、豊穣の実を育てていくために『果断』という作業があります。これはしっかりと育つ実を活かしていくためにも、他の不要な実をあえて切り捨てていくということ。果断をしないと、木全体が弱っていき良い実も育たなくなってしまうということなのです。
(瀬戸内寂聴氏)
いわゆる「剪定」というものですね。
私たちは何かを突き詰めて大成していくためには、問題の根本的な部分と向き合い、最適な判断を進めて、そのために適切な処理をしていきます。最適な判断の元、方針に合わないものは「辞め」たり、「捨て」たり、「見極め」たりする。それこそが「諦め」であります。だから「諦める」ということは、実は最高の結果を生み出すための、前向きな生き方に通じていくものなのです。
能力が足らずに弁護士になりたかった夢を諦めた。
お金がなかったから留学を諦めた。
事業が上手くいかずに拡大路線を諦めた。
仕事がなかったからやりたいことを諦めた・・・
これらはすべて私の諦めです。いや、こんなものではありません。数えれば切のないほど無数に存在します。
けれども今だからこそそれは「恥」ではなかったのだと確信できます。当時は苦心惨憺たるものであろうと、「自分にとってベストな人生を歩むために、ベストな道を選んだ」結果が今であると思っています。
「諦める」ことは負けることでもなく、怖いことでもありません。
極めて人生にとって必要不可欠な、明るい選択のひとつなのです。